五十嵐家の初代次郎助は越後国蒲原郡伊賀良志神社の神主であったが、砺波郡内島村を開発して、寛永12年(1635)十村(十村はたくさんの村々を包括する「組」の首長で他藩の大庄屋にあたり、その職務は組内の一般行政を始め、警察・司法の末端事務に至るまで広範囲にわたっている。十村組の首長として農村の自治に任ずるとともに、御郡奉行や改作奉行の指揮下に、藩政事務の一部を担任した)となった。子孫は連綿として十村を受け継ぎ、9代孫作は寛政5年(1793)に生まれ、長じて篤好と名乗った。
篤好は名十村であるとともに、国学者・数学者として数多くの名著をのこしたばかりでなく、郷土史学に貴重な文献を遺し、また優れた墨蹟を残している。
当家に伝わる古文書は150点(221冊)と短冊117点である。篤好が著した伊勢物語披雲や言霊をはじめ、神典秘解のほかに、和絃(篤好の息子)の絵巻物など興味深いものが多い。平成8年(1996)から当館で、保管している。
五十嵐家は現在の東五位小学校にあったが、明治期に富山市へ転住された。今は校庭の片隅に篤好翁頌徳碑がたたずんでいる。 |